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東京高等裁判所 平成4年(う)1277号 判決 1993年5月12日

主文

原判決を破棄する。

被告人を懲役一年六月に処する。

原審における未決勾留日数中一二〇日を右刑に算入する。

この裁判の確定した日から三年間右刑の執行を猶予する。

理由

本件控訴の趣意は、検察官坪内利彦が提出した控訴趣意書に、これに対する答弁は、弁護人穴水広真提出の答弁書にそれぞれ記載されたとおりであるから、これらをここに引用する。

論旨は、要するに、「原判決は、本件各公訴事実につきいずれも合理的な疑いが残るとして無罪を言い渡したが、被告人は、捜査、公判の全過程を通じて一貫して右各事実の全てを自白し、弁護人も全く争つていなかつたのであつて、被告人が公訴事実記載の犯罪を行つたことは証拠上明らかである。原判決は、証拠に基づかない独善的な推論を行い、その結果事実を誤認して被告人に無罪を言い渡したものであり、右の事実誤認が判決に影響を及ぼすことは明らかであるから、これを破棄した上適正な裁判を求める。」というのである。

そこで、所論と答弁にかんがみ記録を調査し、かつ、当審における事実取調べの結果をも加えて検討する。

一  公訴事実並びに捜査及び公判の各経過

1  本件各公訴事実は、被告人が、(一)平成四年四月九日午前四時三〇分ころ、東京都台東区根岸所在のA方居宅内において、同人所有の甲野信用組合総合口座通帳一冊及び「A」と刻した印鑑一個(時価三〇〇〇円相当)を窃取し、(二)同日午後零時三九分ころ、同都中央区銀座所在の甲野信用組合東銀座支店において、行使の目的をもつて、同支店備付けの普通預金払戻請求書に、右窃取に係る印鑑を押捺するなどして、A作成名義の金額五〇〇万円の普通預金払戻請求書一通を偽造し、即時同所において、同支店店員に対し、これがあたかも真正に成立したものであり、払戻しにつき正当な権限を有するもののように装つて、窃取に係る総合口座通帳とともにこれを提出して現金五〇〇万円の払戻しを求め、同係員をしてその旨誤信させ、現金五〇〇万円の交付を受けてこれを騙取した、というものである。

2  被告人は、平成四年四月二七日に逮捕されて以来、捜査段階において終始全面的に右各事実を認め、詳細な自白をしていただけでなく、原審公判廷においても、各公訴事実はすべて間違いない旨陳述し、弁護人も同旨の陳述をした。そして、原裁判所は、第一回公判において、被告人及び弁護人が証拠とすることに同意した検察官請求の書証及び証拠物を全て取り調べ(ただし、検察官が任意に撤回した分を除く。)、弁護人請求による情状証人の取調べ及び情状に関する被告人質問を行つたが、第二回公判において、自ら、事実関係に関する詳細な被告人質問をし、第三回公判において、職権で採用した証人Bを尋問し、以後、第四回公判においては、再度、詳細な被告人質問を、第五回ないし第七回公判においては、いずれも職権で採用した証人A、同C子及び同Dの各尋問を、第七回公判においては更に補充的な被告人質問をそれぞれ行つた。

被告人は、右各被告人質問において、捜査段階と同旨の供述を繰り返し、事情があつて虚偽の自白をしているのではないかとの質問に対しても、明確にこれを否定する供述をした。そして、前記Aを始めとする各証人の証言も、基本的に、被告人の自白に副うものであつた。

第七回公判において、検察官は、事実関係についてはその証明が十分であるとして、懲役一年六月の求刑をし、弁護人も「公訴事実は、被告人の認めるところであり争いはなく、疑問もないと考える。」として、情状に関する弁論を行い、執行猶予の判決を求めた。

3  しかし、原裁判所は、被告人及び被害者Aの供述には種々の疑問があるとして被告人に対し無罪の言渡しをした。原判決によれば、被告人はAの通帳等を窃取したのではなく、Aは被告人による預金の払戻しを承諾していたとの疑いを否定できないというのである。

右判決に対し、検察官が控訴を申し立てたところ、弁護人は、原判決とは異なる理由により(後記三2参照)、無罪の原判断は維持されるべきであるとの答弁をしたが、被告人は、裁判長の「この法廷で一審で述べたことを訂正したり、あるいは付け加えたいことがあれば述べなさい。」との質問に対し、「間違いはありませんが、最初通帳を持ち出すときに盗んでやろうという気持ではなくて、ただ三〇〇万円借金を申し込んだときにAさんが貸してくれるということだつたので、ちよつと甘い考えで借りておこうという気持ちで持ち出した。」旨供述し、更に、「事実が間違いないというのは、要するに起訴された事実は間違いないということなのですね。」との質問に「はい。」と、また、「承諾もなしに勝手に通帳などを持ち出して金を降ろしてしまうことが悪いことだということはわかつていたわけですね。」との質問にも「はい。」と答えた。

4  なお、弁護人は、当審において検察官が取調を請求した書証三通(B、E及びC子の検察官に対する各供述調書)の取調べに同意し、検察官は、弁護人請求の弁償関係の書証七通の取調べにいずれも同意し、右各書証の取調べも行われている。

二  基本的事実及び証拠関係

1  本件においては、

(一)  被告人は、昼は会社の事務員をしながら、アルバイトとして夜はホテトル嬢をしていた者であること、

(二)  窃盗の被害者Aは、的屋組長で金融業をも営んでいるが、二、三年前から客として被告人と付合いがあり、これまでに二回、被告人に二、三〇万円の金員を貸してやつたこともあること、

(三)  平成四年四月九日午前零時過ぎころ、被告人は、公訴事実記載のA方を訪れて金三〇〇万円の借用方を申し入れたこと、

(四)  同日午後零時半ころ、被告人は、A方から持ち出した同人所有の甲野信用組合総合口座通帳一冊(以下「本件通帳」又は「通帳」という。)及び「A」と刻した印鑑一個を持つて公訴事実記載の甲野信用組合東銀座支店(以下「東銀座支店」という。)に赴き、公訴事実記載のとおり、自ら記載、押印した普通預金払戻請求書及び右通帳を提出して、金五〇〇万円の払戻しを請求し、同日午後零時三九分ころ、同支店係員から右金五〇〇万円の払戻しを受けたこと、

(五)  他方、Aは、同日午前九時一〇分ころ、口座開設店である同信用組合鴬谷支店(以下「鴬谷支店」という。)に対し、代理人を通じて通帳と印鑑の紛失届を提出したこと

等の事実が明らかである。

2  そして、被告人は、捜査段階以来、「四月九日A方を訪れて、三〇〇万円の借金の話をした際、Aがかねて承知してくれていたのに、返事もしないで寝てしまつたので、机の中から金庫の鍵を探し、金庫の扉を開いて通帳と印鑑を盗み出した上、東銀座支店で預金を払い戻した。」旨供述しており、他方、Aも、「当夜被告人に通帳と印鑑を渡したり、預金の払戻しを承諾したことはない。朝、金庫を開けたら通帳と印鑑がなくなつていたので、驚いた。」旨被告人の自白に副う供述をしている。そして、右Aの供述は、証拠上明らかな前記1(五)認定の同人の事後の行動とも符合するものである。

三  原判決の提起した疑問及び当審における弁護人の主張

1  右二記載の各事実及び証拠によると、本件各公訴事実については、疑問を容れる余地がなさそうに思われるが、原判決は、A及び被告人の各供述を含む関係証拠については種々の疑問を禁じ得ないとして、多くの問題点を指摘した上、結論として、次のような合理的疑いが残るものと認めた。すなわち、Aは、被告人から金三〇〇万円の借金の申入れを受け、そのような大金の貸与に応ずるつもりはなかつたが、通帳や印鑑の喪失届を出した上で被告人に右通帳からの預金払戻しの機会を与え、もし首尾よく払戻しに成功すれば、金融機関側の責任であり信用問題でもあるから、払戻しを受けた分を回収できると考え、被告人に預金払戻しの機会を与えたところ、被告人は、「解明が事実上困難と認められる何らかの事情により首尾よくこれに成功した。」という疑いがあるというのである。

2  他方、弁護人は、当裁判所に提出した答弁書において、原判決のように、Aが、二重に払戻しを受けて利得するつもりで喪失届を出し、被告人に払戻しの機会を与えたのではないかとか、東銀座支店の担当者もこれに荷担していたのではないかと疑うのは相当でないとしながらも、「Aは、被告人の行為を一旦容認したものの、朝になつて心変りをし喪失届を出したところ、その後払戻しがされたことを知り、これを奇貨として、被告人が勝手に犯したもので自分は被害者であるかのように装つたのではないか、という疑いがあり、被告人に無罪を言い渡した原判決は正当である。」旨主張している。

四  当裁判所の判断

原判決の指摘するような本件事案の性質、証拠の内容等に照らすと、原裁判所が原判示のような疑問を抱き、職権により慎重に証拠調べを行つたことも理解し得ないではなく、また、原判決の判断を所論のように「証拠に基づかない独善的な推論」と批評するのは当たらない。

しかし、原審で取り調べた証拠に当審における事実取調べの結果をも加えて検討すると、原判決の指摘する疑問は、その多くが解消され、本件各公訴事実の存在に「合理的な疑い」を残すものではないと認められる。その理由は、以下のとおりである。

1  被告人の供述の経過について

被告人は、前記のとおり、捜査段階及び原審公判において一貫して本件各公訴事実を認め、事実関係を詳細かつ具体的に供述している。原判決は、被告人がそのような供述をしている理由について、「Aの身分に照らし、真実を供述した場合、何らかの報復が加えられるのではないかと恐れ」たためである疑いがあるというが、被告人は、そのような疑いを示唆した原審裁判官の再三の質問に対しても、明確に「事実は間違いない。」旨を断言しており、応答を躊躇したり、表現を濁すなど、真相が別の所にあることを窺わせるような供述は全くしていない。

その上、被告人は、原審で無罪判決を受け、犯行から一年近くを経過した後である当審公判廷においても、前記のとおり、基本的に原審での供述を維持している。当審公判においては、暴力団関係者が傍聴に来ていた気配はなく、その他、被告人が自由な供述をしにくい状況は全くなかつたのである。

以上のように、被告人が捜査から当審公判に至るまで一貫して事実を認める供述をしていることは、その供述の信用性を評価する上で重要である。

2  被告人及びAの各供述の信用性を担保する客観的事実について

被告人の右供述及びこれを補強するAの供述は、証拠上明らかな次の諸事実によつて、信用性が客観的に担保されている。

(一)  Aが、通帳等の紛失に気付くや、直ちに口座開設店である鴬谷支店に、その紛失届を提出したいること。

(1) 金融機関に対し通帳等の喪失届を提出すれば、金融機関が以後当該通帳による預金払戻しに応じないであろうと考えるのが常識であるから、Aが、一方において被告人に預金の払戻しを承諾しながら、他方において、金融機関に対し通帳等の喪失届を提出するというのは、矛盾した行動というべきである。したがつて、同人が喪失届を提出した事実は、被告人に預金の払戻しを承諾していなかつたことを有力に推測させる事実であると考えられる。

(2) 原判決は、右の点につき、「喪失届が出されれば、通常払戻しは不可能になるから、そのような目論見自体いわば論理矛盾で実現性がなく、したがつて、そのようなことを実行する考えを抱くはずがないということは、一応そのとおりであると思われる。」としながら、本件において、東銀座支店の女子係員が、端末機に警告ランプが点灯したにもかかわらず、そのまま被告人に対し金五〇〇万円の払戻手続を続けてしまつたことを重視し、右払戻しが、単なる偶然による過誤ではないのではないかという疑問を提起している。原判決は、右払戻しの原因につき、「外部からは容易に知りがたい事情」とか、「解明が事実上困難と認められる何らかの事情」などと述べるに止まるが、もし右払戻しが単なる過誤でないとすれば、金融機関内部に共犯者(内応者)がいたということ以外にはその原因が考え難いのであるから、原判決は、端的にいえば、Aが甲野信用組合の内部の誰かと結託して、通帳等の喪失届の提出後に行われた被告人の払戻し請求に応じさせたのではないかと疑つているものと解される。

(3) しかし、原審において取り調べた証拠中には、信用組合内部の者がAに内応して、被告人に対する預金の払戻しをしたのではないかと疑わせるものは存在しない。その上、当審における事実取調べの結果によれば、この点に関する原判決の疑問は解消したと認められる(弁護人の答弁書も、右のような疑問の余地はないとしている。)。

すなわち、原審で取調べたB、C子及びFの司法警察員に対する各供述調書、原審証人B及び同C子の原審公判廷における各供述に、当審で取り調べたB、E及びC子の検察官に対する各供述調書等を総合すると、次の事実が認められる(なお、以下においては、検察官に対する供述調書を「検面」、司法警察員に対する供述調書を「警面」といい、日付で特定する必要がある場合は、「4・28付警面」などと略記する。また、被告人及び証人の原審公判廷における各供述についても、「原審供述」「原審証言」などということがある。)。

<1> 鴬谷支店においては、平成四年四月九日午前九時一〇分ころ、Aの代理人から提出された本件通帳及び印鑑の各喪失届を受理し、九時二〇分ころ右受理手続を完了した上、九時三〇分ころには、右喪失届を受理した旨をコンピューターに入力したこと、したがつて、以後は、オンラインで連絡する各支店預金係の端末機は、右通帳による預金の払戻しが入力されれば、喪失届が提出された旨のメッセージと共に注意灯が点灯することになつたこと、

<2> 同日午後零時三〇分ころ、被告人から預金払戻し請求書を受け取つた東銀座支店の預金係員C子は、右払戻しを端末機に入力しようとしたが、同支店においては、ネット取引(他支店の通帳による取引)の場合及び払戻し請求額が一〇〇万円を越える場合には、規定により、端末機へ入力する前に、支店長代理以上の役席者から役席者カードの使用を承諾してもらい、これを端末機に挿入しなければならないこととされていたので(右手続をしないと、端末機への入力自体ができない。)、右カードの使用を承諾してもらうため通帳及び印鑑と払戻し請求書を持つて、G業務係長(支店長代理。以下「G支店長代理」という。)の席へ行つたこと、

<3> その際、G支店長代理はたまたま外出中であり、またH同支店次長も電話応待中であつたため、代つて、得意先係長E(以下「E支店長代理」という。)が印鑑照合の上、払戻し請求書に印鑑を押捺し、役席者カードの使用を承認したこと、

<4> 同支店においては、ネット取引で三〇〇万円以上の払戻請求の場合には、口座開設店に確認することになつていたが、得意先係長であるE支店長代理は、業務係の事務に精通していないため、右確認手続の必要性を意識せず、印鑑照合だけでカードの使用を承認してしまつたこと、

<5> C子が役席者カードを端末機に挿入した上で払戻し金額を入力した際、キーボード上のコントロールキーに注意灯が点灯し、画面上には、左隅に小さく「インカンフンシツ」というメッセージが表示された筈であること、

<6> しかし、端末機に注意灯が点灯するのは、印鑑等の紛失の場合に限られず、「郵便不着」、「延滞あり」、「本人死亡」等多くの場合があり、また、ネット取引で払戻し額が一〇〇万円を越え、役席者カードを使用した場合には常に注意灯が点灯することになつているため、東銀座支店の端末機に注意灯が点灯するのは、一日平均二〇回ないし三〇回もあり、右は、預金係が端末機に入力する回数の三割ないし四割にあたること、

<7> C子は、右注意灯の点灯が、ネット取引で払戻し額が一〇〇万円を越え、役席者カードを使用したからであると軽く考え、画面上のメッセージをよく見ないまま、キーを叩いて注意灯を消した上、手続を進めたこと、

<8> 同日午後零時三九分ころ、C子から、支払いオペレーション後の預金通帳及び支払請求書を受け取つたH次長は、支払請求書の印鑑照合欄等を確認の上、照査印欄に押印し、出納室の支払資金から五〇〇万円を出して、通帳と共に出納係員I子に渡し、同女は、これを被告人に支払つたこと。

(4) これによると、東銀座支店が、被告人の預金払戻請求に応じたのは、<1>本件が役席者カードの使用の必要な事案であつたため、預金係のC子が、注意灯の点灯はそのためであると軽視し、画面のメッセージをよく見なかつたこと、<2>役席者カードの使用を承認するG支店長代理が不在で、H次長も電話中であつたため、得意先係のE支店長代理が代つて承認したこと、<3>同支店長代理は、業務係の事務に精通していなかつたため、三〇〇万円以上の払戻請求の場合に必要とされる口座開設店への確認手続をしなかつたこと等、いくつかの手落ちと偶然が重なつて発生した過誤と認められる。

確かに、C子が注意灯の警告や画面上のメッセージに注意することなく大金の払戻手続を進めてしまつた点は、一見すると、極めて奇異に感ぜられないではないが、前記のような経緯及び状況を考慮すると、C子が注意灯が点灯したのを役席者カードを使用したからであると軽信し、画面上のメッセージを見落して払戻し手続を進めてしまつたということも(あつてはならない過誤ではあるが)、実際上十分生じ得ることと考えられる。右の点に関するC子の供述が信用できないとは到底いえない。

他方、証拠上、C子、E支店長代理等がAと内応し、不正な払戻しを行つたと疑うべき状況は全く認められない。同人等がそのような不正な払戻しを行つた場合、早晩これが発覚し、同人らがその責任を厳しく追及されることは極めて見易い道理であるから、特段の事情もないのに、同人等がそのような愚かな行為に出たとは想像し難いところ、同人等が敢てそのような行為に出たことを疑わせる事情は、証拠上全く認められないのである。

したがつて、本件払戻しが単なる偶然による過誤ではない疑いがあるという原判決の判断は、証拠に照らすと、合理的な根拠を欠くといわなければならない。

(5) 以上のように被告人に対する預金の払戻しが信用組合側の過誤に基づくものであるとすると、Aが、このような過誤を期待して被告人に払戻しの請求を承諾したと考えるのは、甚だ不合理であるから、結局、Aが被告人に対し預金の払戻しを承諾したのではないかという原判決の立論は、最も有力な論拠を失うことになる。

(二)  預金の引き下ろされた通帳と印鑑が、その直後に元の金庫内に戻されていたこと。

被告人により預金五〇〇万円が引き下ろされた通帳とこれに使用された印鑑は、四月一三日には、A方の金庫内の元の位置に返還されていたことが明らかであるが、もしAが、原判決が疑うように、被告人に対し預金の払戻しを承諾しながら、自分は信用組合の責任を追及して払戻し分を回収しようと考えていたのであれば、払戻しずみの通帳と印鑑を被告人に返還させる必要は全くなく、むしろ、何らかの方法でこれを被告人に処分させるのが自然であると考えられる。したがつて、通帳等が事後に金庫内に戻されていたことは、Aが預金の払戻しを承諾していなかつたことを推測させる事実であるといわなければならない(なお、原判決は、被告人が通帳等を事後にこつそり返還したとすれば、その行動は大胆に過ぎて不自然であるとし、通帳等をこつそり返還したという被告人の供述の信用性を疑つているが、その理由のないことについては、後述する。)。

(三)  AがB支店長らに対し、金庫を開いて見せた際の言動。

四月一三日、東銀座支店支店長B(以下「B支店長」という。)らがA方を訪れた際、Aは、同支店長らに求められたわけでもないのに、自ら「通帳はここにこうして置いてあるんだよ。」と言つて金庫を開け、中に通帳が入つているのを知つて驚くと共に、その後の会話の中で、自ら被告人の名前を出したことが明らかであるが、もしAが被告人に預金の払戻しを承諾していたのであれば、同人が右のような言動に出ることは、常識上考えられないことである。なぜなら、Aが被告人に右払戻しを承諾し、事後に通帳等の返還を受けて金庫内に戻しておいたのであるとすれば、同人は、金庫を開けばその中に通帳等が入つていることをB支店長らに知られてしまうことがわかつていた筈であり、そうなれば、通帳を持ち出した犯人の範囲が狭められて、悪くすれば自分も疑われることになることを理解し得たと思われる。同人らが、自らを不利な立場に追い込むことが確実な右行為を、それと知りながら進んでしたと考えるのは、不合理である。

原判決は、Aは、「深い考えもなく」B支店長らに金庫を開けて見せ、その結果通帳が返還されていることを初めて知つて驚いたように装つた疑いがあるというが、Aが被告人と通謀の上預金の払戻しを承諾し通帳等を金庫内に戻しておいたのであれば、金庫を開くことがどのような結果を招来するかは容易に理解し得る筈であるから、これを「深い考えもなく」開くということは、考え難いことである。

3  被告人の行動ないし供述の疑問点について

(一)  原判決は、被告人の行動ないし供述の疑問点として、次の諸点を指摘している。

(1) 被告人が、的屋組長であるAの居宅金庫から、通帳と印鑑を盗み出して預金を引き下ろした上、再びこつそり返したというのは、大胆に過ぎる行動であること、

(2) A方から通帳等を盗み出したという被告人が、開店直後に払戻しを請求せず、昼過ぎになつて東銀座支店に赴いたのは、Aから喪失届が提出され各支店にその手配がされる状態になるのを待つたと見る余地があること、

(3) 被告人が、騙取金の大部分を、支払いに緊急性があつたか疑問と思われる使途(勤務先の会社の経理上の支払い)にあてており、振り込んだ通帳に印字された日付の一部を改ざんした理由についても合理的な説明がなく、捜査段階においては、騙取金の使途について虚偽の供述をしていたこと、

(4) 被告人の供述には、<1>いわゆる体験供述とみられるものがなく、<2>通帳等の窃取や返還に要したとする時間が長過ぎて不自然であり、<3>供述内容にも不自然な変遷があること。

(二)  しかし、原判決指摘の諸点は、「Aに無断で通帳等を盗み出した。」という被告人の一貫した供述の信用性を疑わせるものではないと認められる。この点は、概ね、所論の指摘するとおりであると認められるが、若干補説する。

(1) 疑問点(1)について

Aは、的屋親分ではあるが、ホテトル嬢である被告人の客として、本件前約二年間、二か月に一度程度の割合で付き合つていた者であり、被告人に対し粗暴な言動に及んだことはなく、被告人が、従前同人方に泊めてもらつたり、同人から借金をしたりしていることからみても、被告人が同人に畏怖心を抱いていたとは認められない。現に、被告人は、本件直前に、従前の借金が未返済であるのに、新たに三〇〇万円の借金の申入れをし、Aもむげにはこれを断らなかつたと認められるのであつて、両名の右のような従前の関係を前提にして考えれば、被告人が万一犯行が発覚しても、同人に手荒なことはされないであろうとたかをくくつて犯行を行い、首尾よく預金払戻しに成功した後、犯行が発覚していないと考えて、通帳等を元の場所に返還するという行動に出ることは、あり得ることと考えられ、被告人の右行動が大胆に過ぎて不自然であるとは認められない。

(2) 疑問点(2)について

被告人が、A方を出た後、八時過ぎころ出社しながら、開店直後に預金の払戻請求をせず同日午後零時半ころになつて初めて東銀座支店へ赴いたことは、原判決の指摘するとおりである。しかし、被告人は、当日自分の犯行がAに気付かれたとは考えていなかつたと認められるから、一刻も早く預金を払い戻さなければ下ろせなくなるとまで考えず、早急に払戻しの手続をとらなかつたからといつて不自然であるとはいえない。したがつて、被告人が、Aから喪失届が提出されるのを待つて払戻手続を行つたと疑うべき根拠は薄弱である。

(3) 疑問点(3)について

被告人が、東銀座支店から引き下ろした五〇〇万円のうちの大部分を勤務先の会社の経理上の支払いにあてたことは事実と認められるが、そのことは、Aに無断で通帳等を盗み出したという被告人の供述の信用性を何ら動揺させるものではない。被告人は、勤務先の会社において社長(J)の信頼が厚く、経理を全面的に任されていたのであり、被告人自身も、従業員というよりは共同経営者のような気持でいた旨供述しているのであつて、そうであるとすれば、被告人が、社長に無断で、騙取金の一部をもつて経理上の支払いをするということは不自然な行動ではないと認められる(もし、右行動が不自然であるというのであれば、被告人が、Aから預金払戻しの承諾を得た上で五〇〇万円を引き下ろしたとした場合であつても、その大部分を会社の経理上の使途にあてることは、やはり不自然であるということになる。)。

また、被告人が、平成四年四月一〇日、K子(J社長の妻で勤務先の会社の常務取締役)の総合預金口座(三菱銀行)に、五回に分けて合計五三万五〇〇〇円を振り込みながら、「通帳の印字が薄かつたから」という理由で、最初の二回の各六万五〇〇〇円の振込みの日付をボールペンでなぞり、あたかも「二月五日」及び「三月六日」に右各金員が振り込まれたような外観を作出した理由は、必ずしも明らかではないが、「特に意識して記入した訳ではな」いという被告人の供述も、それ程不自然であるとはいえないし、当日被告人が右各金員を右預金口座に振り込んだこと自体が明らかである以上、このような点に関する被告人の行動が、「Aに無断で通帳等を盗み出した。」という被告人の供述の信用性を動揺させるものではないと考えられる。

更に、被告人は、捜査の初期の段階において、騙取金の使途につき虚偽の供述をしたが、その後、供述を変更し、右変更後の供述は、客観的証拠により裏付けられている。そして、被告人は、当初使途について虚偽の供述をした点についても合理的な理由を述べているのであり、これらの点からすると、被告人が、当初騙取金の使途について虚偽の供述をした点も、その供述全体の信用性を低下させるものではない。

(4) 疑問点(4)について

犯行当夜の行動に関する被告人の供述は、「Aが眠り込んだのを確認した後、机の引出しから金庫の鍵を探し出し、これで金庫の扉を開いた上、三段の引出しを順次引き出そうとしたが、一段目は引き出せず、二段目は指輪類だけだつた。三段目は鍵がかかつていたので、金庫の鍵と一緒にあつた鍵を差し込んで開け、ゴチャゴチャした収納物の中から、残額の多い通帳とこれに合う印鑑を探し出して窃取し、更に金庫と鍵を元通りにした。」というものであり、被告人は、右行動を詳細かつ具体的に、その間の心理の動きをも交えて描写していることが明らかである。被告人の右供述は、その内容に不自然なところはなく、Aの供述とも符合しているのであつて、これが、原判決のように、いわゆる体験供述を伴わないものであるとはいえない。

また、右のとおり、被告人が供述する当夜の行動は、これを手順良く行つてもかなりの時間を要すると思われるものであるが、被告人は、Aに気付かれないよう、その様子を窺いながら、慎重にことを運ぶ必要があつたと認められ、被告人が、緊張の余り何度もトイレに行つたと供述していることをも併せると、盗む作業に「一時間から一時間半位」(4・28付警面)又は「一時間前後」(原審第四回公判)かかつたという被告人の供述に、不審な点があるとは認められない(なお、時間に関する記憶が時々の状況により正確を欠くことが少なくないことは経験上明らかであるから、当夜の行動が客観的に「一時間前後」の時間を要しなかつたとしても、前記の状況からすれば、被告人がそのように長い時間を要したと記憶し、その記憶に従つて供述することも十分考えられるところである。)。通帳等の返還の場合は、金庫の鍵の所在等が判明しているため、窃取時よりも作業は簡単であると思われるが、やはり、Aが寝入るのを待つて、同人に気付かれないよう慎重にことを運ぶ必要があつたと認められることは窃取時と変りはない。被告人は、右返還作業に「三〇分くらいかかつた。」旨供述し、原裁判所により、そんなにかかるわけがないではないかと追及されているが、右に指摘した点を考慮すれば、返還に要した時間に関する被告人の供述が、不自然であるとは認められない。

更に、原判決は、被告人が、当初警察官の取調べに対しては、金庫内に印鑑が一本しか入つていなかつたと供述していたのに、公判段階ではこれを変更していると指摘するが、被告人の右変更後の供述も、「一本だけ印鑑の入つた小さな印鑑入れのほかに、大きな印鑑入れもあつたが、自分は、一本だけ入つた印鑑入れから印鑑を出して通帳と照合の上、これだなと思つて盗んだ。」というものである。これによれば、被告人は、結局印鑑は一本しか見ていないことになるので、警察官の取調べに対し、「印鑑が一本しか入つていなかつた。」と供述することもあり得ると考えられ、右供述の推移の中に、その信用性を疑わせるような不自然な変遷があるということはできない。

(5) 以上のとおりであつて、被告人の供述には、その供述内容自体からみても信用性が高いと認められる。

4  Aの行動ないし供述の疑問点について

(一)  原判決は、Aの行動ないし供述の疑問点として、次の諸点を指摘している。

(1) Aは、四月九日午前中既に、通帳と印鑑の紛失に気付き、信用組合に喪失届を提出していたことになるから、その夜泊まりに来た被告人に対し疑いの目を向けて然るべきであるのに、そのような言動には全く出ていないこと、

(2) Aが供述するように、被告人が四月八日から一〇日まで三晩も続けて「終電がなくなつたので泊めて欲しい。」などと、同じ態様の行動をとつたということ自体が不自然であること、

(3) 被害当夜及び翌日の晩の行動に関するAの供述は、骨格だけの供述で臨場感に乏しく、また、記憶ちがいをすることがほとんど考え難い事項について供述が変遷している上、深刻な被害者意識に乏しいこと、

(4) Aは、四月一三日に訪ねてきた東銀座支店のB支店長らの前で金庫を開けた際、本件通帳と印鑑が入つていたので驚いた旨供述するが、B支店長らの供述によれば、その際金庫の中からは通帳だけが見付かり、印鑑はなかつた疑いがあること、

(5) Aは、B支店長らの来訪を受けた際、犯人が被告人であると気付いていた筈であるのに、通帳が戻されていることが支店長らの面前で判明した際にも、直ちに被告人の名を挙げることをせず、同支店長から、「わずか三日のうちに通帳を返すことができる者はごく限られている筈である。払戻しに来たのは女性で四〇歳くらいだ。」と言われて初めて、「心当りがある。」として、被告人のことを話し始めたこと。

(二)  しかし、原判決指摘の諸点は、「被告人に通帳等を盗まれた。」とするAの供述の信用性を動揺させるものではないと認められる。

(1) 疑問点(1)について

四月一〇日午前零時過ぎころ、被告人がA方に泊りに来た際、Aが、既に鴬谷支店に通帳等の喪失届を提出した後であつたのにもかかわらず、被告人の宿泊を断らなかつたばかりか、被告人に対し疑いの目を向けたような言動に出なかつたことは、原判決の指摘するとおりである。

そして、Aの4・15付警面には、「四月九日午前九時ころ、金庫を開けて引出しを見ると、五二〇万円位入つた通帳と印鑑が盗まれているのに気付いた。私はその時咄嗟に、『あ、あの女だ。』と思つた。あの女とはL子のことである。」旨の記載があり、これによれば、四月一〇日に被告人が泊りに来た際には、Aは既に通帳等を盗んだのが被告人であると感付いていたことになるので、Aの当夜の前記言動は、いかにも不審に感ぜられる。

しかし、Aは、その後の検察官に対する供述調書(5・7付検面)では、「四月一三日に、B支店長らが来て、金庫を開けて見せたら通帳と印鑑があつたので非常に驚いた。その際、五〇〇万円を払戻しに来たのが女と聞き、すぐにL子に違いないと思つた。」旨供述しており、原審公判廷においても、右供述を維持している。

また、B支店長も原審公判廷において、「四月一三日A方で金庫を開いて通帳が発見された際、『通帳を出し入れする人ならお分かりになるんじやないでしようか。』と聞いたら、Aは、ずつと考えていたようだが、『その間社員二名、それからL子さんが出入りしたような気がする。』と言つた。」旨証言しており、右証言は、Aが右の時点で初めて犯人が被告人だと気付いたとする前記検面に副うものと考えられる。

更に、当時の客観的状況から見ても、Aは、本件通帳を四月六日に金庫に入れ、同月九日に金庫を開くまでの三日間はその存否を確認していなかつたこと、A方には、配下組員が何人か出入りしているので、通帳等の紛失を知つたAとしては、配下組員に対しても疑いの目を向ける余地があつたこと等の点からすると、Aが、四月九日に盗難の事実に気付いた際、直ちにその犯人が被告人であると断定し得たかどうか疑わしい。

原審公判廷におけるAの供述内容から見ると、Aの記憶力、質問に対する理解力、質問に的確に応答する表現力等にはかなり問題があり、供述態度も不用意で、物事を必要以上に断定的に述べようとする傾向も窺われるので、同人の供述には細かな事項について誤りが生じるおそれも小さくないと推測される。そうすると、同人は、捜査初期の警面において、犯人を知つた時期に関し誤つた供述をした蓋然性が大きいと認められる。

結局、右Aの警面の記載は、前に引用した各供述と対比すると、信用し難い。

そうすると、Aが、四月九日の時点で既に犯人が被告人であると知つていたことを前提として、同人の同月一〇日の言動が不審であるという原判決の指摘は、あたらないといわなければならない。

(2) 疑問点(2)について

Aの4・15付警面には、「四月八日午前零時過ぎに、L子が何の前触れもなく、缶ジュース二個を持つて訪ねてきたが、そのまま寝てしまつた。翌九日も午前零時過ぎに訪ねてきて缶ビールを勧めたので一口飲んだが薬臭かつた。翌一〇日も同じ時刻に来た。」「今思えば、八日は下見に来たのかもしれない。」との記載があり、5・7付検面にも、「L子は、四月八日から一〇日まで、三晩連続して訪ねて来た。八日には三〇〇万円貸して欲しいと頼まれ、九日には、持つてきたビールを一緒に飲もうと言われた。」旨の記載があるが、同人は、原審公判廷においては、「L子がビールを持つて来た日の前日訪ねてきたことはない。」「八日にL子が来たんではないかなどと警察官に言つたことはない。それは、警察官が勝手に書いたと思う。」旨証言している。

他方、被告人の4・28付警面には、「四月初旬ころ、A方を訪ね三〇〇万円の借入れを申し入れたところ、Aは承諾してくれて、『わかつた。夜来い。』と言つた。その言葉を信じて、その日の夜と次の日の夜訪問したが、いずれも留守で会えなかつた。」との記載に引き続き、<1>四月八日午前零時過ぎころ、A方を訪れて三〇〇万円借りる話をしたこと、<2>翌九日午前零時過ぎころ、再びA方を訪れて、同人が寝入つた後、通帳と印鑑を盗んだこと、<3>翌一〇日午前零時過ぎころ、三度び同人方を訪れて、同人が寝入つた後、通帳と印鑑を金庫に返還したこと等が記載されているが、5・14付検面では、四月初旬にAに借金の申入れをし、その後再々同人方を訪問したが会えなかつたとの記載に続き、いきなり前記<2>(四月九日犯行当夜)と同<3>(通帳等を返還した一〇日)の各訪問の件が述べられており、<1>(八日)の訪問の件が欠落している。そして、被告人は、原審公判廷においても、右検面と同旨の供述をし、「犯行前日の八日にA方を訪ねたか。」との質問に対し、これを明確に否定している。

このように、Aと被告人の供述は、当初「三晩連続して被告人がA方を訪ねた。」という線で一致していたが、その後、被告人が、捜査段階において四月八日の訪問の事実を否定し、公判段階ではAもこれを否定するに至つている。したがつて、両名の最終的な供述においては、原判決が不自然であると指摘する「三晩連続してのA方訪問」の事実はなかつたとされているのであるが、原判決は、更に、<1>被告人が右のように供述を変更したのは、三晩連続しての訪問という話の筋が余りに不自然であることに気付いたためではないかとか、<2>そうでないとするなら、被告人が何故にAの供述に符合し、かつ、事実に反する供述をしたのかなどの疑問を提起している。

しかし、右供述の経過については、次のように考えるのが自然であろう。すなわち、Aが、捜査の初期の段階で、不用意に、被告人が三晩続けて泊りにきた旨誤つた供述をし(前記(1)参照)、被告人も、一旦はこれに同調して同旨の供述をしたが、捜査の途中で誤りに気付いて供述を変更し、Aも、原審公判では誤りに気付いて供述を訂正したと考えられるのである。もともと、被告人が三晩続けてA方に泊つたかどうかは、本件犯行の存否の認定に重要な影響を及ぼすべき事柄ではないから、A又は被告人が右の点に関しことさら作為して供述又はその変更を行つたとは考え難く、証拠上、そのように疑うべき合理的根拠もない。

なお、原判決は、両名が口裏を合わせて、当初虚偽の供述をしていたと疑つているようであるが、被告人とAの供述は、四月初旬に被告人がAに三〇〇万円の借金の申入れをしたか否か等重要な点において、当初から食い違いがみられるのであり、両名が口裏を合わせたにしては、不自然である。

原判決指摘の前記<1><2>の疑問も、結局、被告人に通帳等を無断で持ち出されたというA供述の信用性を動揺させるものではないと認められる。

(3) 疑問点(3)について

被害当夜及び翌日の晩被告人が訪ねて来た際、Aは、いずれも就寝直前で間もなく寝入つてしまつたというのであるから、Aのその後の行動に関する供述に、臨場感が乏しいのは、やむを得ないことであつて、その故に、同人の供述全体の信用性が疑わしいということにはならない。

また、Aの供述中に必ずしも重要でないとはいえない変遷のあることは、原判決の指摘するとおりであるが、これは、前記(1)で指摘したようなAの資質、供述態度等に基因すると認むべき余地が大きく、そのことの故に、同人の供述が根底から疑わしいということにはならない。

次に、公判廷におけるAの言動中には、同人が被告人に対し深刻な被害者意識を抱いていることを窺わせるものは見当らないが、同人の捜査段階の供述中には、「本当に恥をかかされ頭に来ています。」など、怒りをあらわにするものも存在する。公判段階においては、被告人により払い戻された預金が信用組合から回収されていたこともあつて、Aの被告人に対する怒りがある程度和らいでいたことも考えられ、また、同人が六二歳の的屋組長であることをも考慮すると、自分と付合いのあつた年下のホテトル嬢(被告人)に対し、公開の場で激しい怒りをぶつけるのは、プライドが許さなかつたとも考えられる。この点も、A供述の信用性を動揺させるものではないと考えられる。

(4) 疑問点(4)について

原審B証言によると、「金庫を開けた際、Aさんは、『あつ、通帳が入つている。』とびつくりしたような格好で言い、一〇秒くらいして、『印鑑はないね。』と言つた。」とされており、右が、当時のメモに基づくものであることからすると、金庫を開いた際、Aが右のような言動に出たことは事実と認められる。しかし、Aは、原審公判廷において、「印鑑は、同じようなのが数個あり、本件印鑑が一緒にあつても、他の印鑑と混ざつてしまう。本件当時は、何で通帳がここに入つたのだろうと不思議さとあつ気にとられた。」旨証言している。通帳発見時の状況が右のとおりであつたとすると、Aが、一瞬、通帳を発見した意外さに驚く余り、印鑑の発見が遅れ、前記のような言動に出ることは十分考えられることであるから、前記B証言は、通帳を発見した当時、印鑑が金庫の中になかつたことを強く推認させるものではない。

そして、A及びBは、捜査官の取調べの際には、一致して、「金庫を開けた際、通帳と印鑑が中に入つていた。」旨供述しているのであり、このことは、Aが前記のような言動に出たにもかかわらず、結局、印鑑も同じ金庫内から発見されたことを知つていたため、当初から通帳と一緒に発見されたように供述したことを推測させる。

このようにみてくると、四月一三日の時点におけるAの発言によつては、「被告人が通帳と印鑑を盗み出し、後刻元通りに戻した。」という被告人及びAの一致した供述の信用性が疑わしいということにならないと考えられる(むしろ、Aが被告人に預金の払戻しを承諾したのであれば、払戻し後の通帳と印鑑の返還を受けて、元の金庫内に仕舞つておいたり、B支店長らにわざわざ金庫を開けて見せたりすることは考えられず、当日のAの一連の行動は、Aが被告人の払戻しを承諾していなかつた事実を推認させるものである。この点については、前記2(二)(三)参照)。

(5) 疑問点(5)について

Aが、B支店長らの面前で金庫を開け、中から通帳等を発見した際にも、直ちに被告人の名前を挙げず、同支店長から「払戻しに来たのは女性で四〇歳くらいだ。」などと言われて初めて被告人のことを話し始めたことは、原判決の指摘するとおりであると認められる。

しかし、「通帳等の紛失に気付いた時点で、直ちに犯人が被告人であると気付いていた。」というAの4・15付警面の信用性に疑問があることは前記(1)のとおりであり、四月一三日の時点においても、Aは、被告人を全く疑つていなかつたとはいえないにしても、第三者に対し、被告人を名差しで犯人と特定するだけの証拠がなく、その自信も持つていなかつたとみる余地が大きい。そして、右の状況は、金庫の中から通帳等が発見されたことによつて、直ちに変化するとは考えられないのであつて、Aが、その段階では直ちに被告人の名前を出さず、「払戻しに来たのは女性である。」という情報に接して初めて被告人のことを話し始めたのは、決して不自然なことではないと認められる。

5  当審における弁護人の主張について

(1) 弁護人は、答弁書において、前記(三2)のとおり、Aは、被告人の行為を一旦容認したものの、朝になつて心変りをして喪失届を出したところ、その後払戻しがされたのを奇貨として、自分が被害者であるように装つたのではないかと疑うべきであると主張する。

(2) しかし、弁護人がAの容認を推認させる事実として指摘する点は、概ね原判決の掲げる論拠と同一であつて、これらがAが被告人に対し預金の払戻しを容認したことを推認させるものでないことは、これまでに詳細に説示してきたとおりである(なお、弁護人は、Aが従前被告人に金を貸していたことがある点を、その論拠の一つとして挙げているが、Aが従前被告人に貸していた金額は、三〇万円程度に止まり、今回の五〇〇万円の借金の申入れは、従前の貸借関係とは桁がちがうのであつて、金融業者であるAが、何の担保も利得もなしに、このような高額の融資に応ずるということは、常識的には考え難いことである。)。

(3) また、Aが、一旦預金の払戻しを容認しながら、翌朝心変りをして喪失届を提出したのではないかという弁護人の主張は、全くの推測であつて、具体的な論拠を伴わないものである。

(4) 更に、弁護人は、被告人は、Aに払戻しを容認されたものと信じていたので、不法領得の意思がなかつたのではないかとの疑いが残る、とも主張しているが、被告人が、Aの就寝中、ひそかに金庫の鍵を開けて通帳と印鑑を持ち出したという前認定の事実を前提とする限り、被告人がAに払戻しを容認されたと信じたとは、到底考えられない。現に、被告人は、当審公判廷においても、前記一3のような供述をするに止まり、Aが払戻しを承諾してくれたと信じたというような供述は、していない。

五  結論

以上のとおりであつて、本件各公訴事実については、いずれもその証明が十分であるのに、原判決がその証明がないものと認めて被告人に対し無罪の言渡しをしたのは、事実を誤認したものというべく、右事実誤認は、判決に影響を及ぼすことが明らかであるから、刑訴法三九七条一項、三八二条により原判決を破棄した上、同法四〇〇条但書に則り、当裁判所において更に自ら判決する。

(罪となるべき事実)

被告人は、

第一  平成四年四月九日午前四時三〇分ころ、東京都台東区《番地略》乙山ビル八〇三号室A方居宅内において、同人所有の甲野信用組合総合口座通帳一冊及び「A」と刻した印鑑一個(時価三〇〇〇円相当)を窃取し、

第二  同日午後零時三九分ころ、同都中央区《番地略》甲野信用組合東銀座支店において、行使の目的をもつて、権限がないのに、同支店備付けの普通預金払戻請求書用紙の金額欄に「5000000」、おなまえ欄に「A」とボールペンで記入し、お届出印欄に前記のとおり窃取した印鑑を押捺するなどして、A作成名義の普通預金払戻請求書一通を偽造し、その場で、同支店係員I子に対し、これがあたかも真正に作成されたものであり、かつ、自己が払戻しについて正当な権限を有するもののように装つて、窃取した総合口座通帳とともに提出行使して現金五〇〇万円の払戻しを求め、同係員にそのように信用させて、その結果、その場で、同係員から現金五〇〇万円を受けとつて、これをだまし取つた

ものである。

(証拠の標目)《略》

(法令の適用)

被告人の判示第一の所為は刑法二三五条に、同第二の所為のうち有印私文書偽造の点は、同法一五九条一項に、同行使の点は、同法一六一条一項、一五九条一項に、詐欺の点は同法二四六条一項にそれぞれ該当するところ、右有印私文書偽造と同行使、詐欺の間には、順次手段結果の関係があるから、同法五四条一項後段、一〇条により、一罪として最も重い詐欺罪の刑(ただし、短期は、偽造有印私文書行使罪の刑のそれによる。)により処断し、以上は同法四五条前段の併合罪であるから、同法四七条本文、一〇条により、重い判示第二の罪の刑に法定の加重をした刑期範囲内で、被告人を懲役一年六月に処し、同法二一条に則り、原審における未決勾留日数中一二〇日を右刑に算入し、被害者Aの被害は既に回復されていること、甲野信用組合の被害も、被告人が雇主の連帯保証のもとに同組合と弁済契約を締結しこれを誠実に履行しているため、既に七割以上の回復を見るに至つていること、被告人には何らの前科前歴がなく、捜査段階より一貫して事実を認めるなど、反省の情も顕著であること等諸般の情状を考慮し、同法二五条一項によりこの裁判確定の日から三年間右刑の執行を猶予し、原審における訴訟費用については、刑訴法一八一条一項但書により、これを被告人に負担させないこととし、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 吉丸 真 裁判官 木谷 明 裁判官 平 弘行)

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